死んだ(しんだ)

15/05/2014 09:20

→「しんだ(死んだ)

用例

くぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明、明石というであった。
森鷗外阿部一族」1913)
殿様寵愛なされもので、それ荼毘当日に、しかも荼毘所の岫雲院の井戸はいって死んだというだけ事実見て殉死したのだという判断をするには十分であった。それ疑って別に原因尋ねようとする余地なかったのである
森鷗外阿部一族」1913)
五助は人間言うように言った
おぬし畜生じゃから知らずにおるかも知れぬが、おぬしさすって下されことのある殿様は、もう亡くなり遊ばさそれでなってなされお歴々きょう切ってなさるおれ下司《げす》あるが、扶持《ごふち》を戴いてつないだお歴々変ったことはない殿様かわいがって戴いたありがたさ同じことじゃそれでおれ切って死ぬるのじゃおれ死んでしもうたおぬし今から野ら犬なるのじゃおれそれかわいそうならん殿様をしたは岫雲院で井戸飛び込んで死んだどうじゃおぬしおれ一しょ死のうとは思わんかいもし野ら犬なって生きてたい思うたこの握り飯食ってくれい死にたい思うなら食う
 こう言って見ていたが、は五助のばかり見ていて握り飯食おない
森鷗外阿部一族」1913)
こう言っておいて、弥一右衛門は子供面前切腹して自分首筋から刺し貫いて死んだ測りかねていた五人子供は、このとき悲しくあったが、それと同時にこれまで不安心境界一歩離れて重荷一つおろしたように感じた
森鷗外阿部一族」1913)

政道地道である限りは、咎め帰するところ問うものない一旦変った処置あると、捌きという詮議起る当主覚えめでたく去らずに勤めている大目附に、林外記というものある小才覚あるので若殿時代お伽には相応ていたが、大体見ることにおいておよばぬところあってとかく苛察傾きたがるであった。阿部弥一右衛門は故殿許し得ずに死んだのだから殉死者と弥一右衛門とのには境界つけなくてはならぬ考えたそこで阿部俸禄分割献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために思いやりなく自分手元使って馴染みある市太夫がために加増なるというところ目をつけて、外記の用いたのである
森鷗外阿部一族」1913)
討手として阿部屋敷表門向うことになった竹内数馬武道誉れある生まれたものである先祖細川高国属して強弓得た島村弾正貴則である享禄四年高国摂津国尼崎敗れたとき、弾正二人両腋挟んで飛び込んで死んだ。弾正市兵衛河内八隅家仕えて一時八隅称した、竹内領することになって竹内改めた。竹内市兵衛吉兵衛小西行長仕えて紀伊国太田水攻めしたとき豊臣太閤白練日の丸陣羽織もらった朝鮮征伐ときには小西家人質として王宮三年押し籠められていた小西家滅びてから加藤清正召し出されていた主君物争いして白昼熊本城下立ち退いた加藤家討手備えるために鉄砲こめ火縄つけて持たせて退いたそれ三斎豊前召し抱えたこの吉兵衛五人男子あった長男やはり吉兵衛名のったのち剃髪して八隅見山といった二男七郎右衛門、三男次郎太夫、四男八兵衛、五男すなわち数馬である
森鷗外阿部一族」1913)
竹内数馬では徳右衛門まず死んでついで小頭添島九兵衛死んだ
森鷗外阿部一族」1913)
人生において或る意味では習慣すべてであるといふのはつまりあらゆる生命あるものもつてゐる生命とはであるといふことができるしかるに習慣それによつて行爲出來てくるものであるもちろん習慣單に空間的なではない單に空間的な死んだものである習慣これ反して生きたでありかやうなものとして單に空間的なものでなく空間的であると同時に時間的時間的であると同時に空間的なもの即ち辯證法的なである時間的に動いてゆくもの同時に空間的に止まつてゐるといふところ生命的な出來てくる習慣機械的なものでなくてどこまでも生命的なものであるそれ作るといふ生命内的な本質的な作用屬してゐる
三木清習慣について」『人生論ノート』1941、冒頭)