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平生(へいぜい)

07/07/2014 11:11

→「へいぜい(平生)

用例

長いこと物蔭にはまだ殘つて居り村端れ一片《ひとつ》青んでゐない晴れたそことなく霞んで雪消《ゆきげ》泥濘《ぬかるみ》處々乾きかかつためいた薄ら温かく吹いてゐたそれ明治四十四月一日ことであつた
學年始業式なので、S尋常高等小學校代用教員、千早健《ちはやたけし》平生より少し早目に出勤した白墨《チヨオク》汚れた木綿紋附擦り切れた長目穿いてクリクリした三分刈帽子冠らず――帽子有つてゐなかつた。――亭乎《すらり》とした眞直にして玄關から上つて行く早出生徒毎朝控所彼方此方から驅けて來て恭しく迎へる中には態々叩頭《おじぎ》する許《ばつか》り其處待つてゐるあつたその殊に多かつた平生三倍四倍……遲刻勝な成績惡いさへ交つてゐた。健直ぐ其等心々溢れてゐる進級喜悦想うたそして何がなく曇つた
その解職願してゐた
石川啄木足跡」1909冒頭
長十郎は平生忠利の廻り勤めて格別懇意こうむっもので、病床離れずに介抱をしていた。
森鷗外阿部一族」1913)
長十郎が忠利の戴いて願っように平生恩顧受けて家臣うちで、これ前後して思い思い殉死願いして許されものが、長十郎を加えて十八あったいずれも忠利の深く信頼していたどもであるだから忠利のでは、この人々子息光尚の保護ため残しておきたいこと山々であったまたこの人々自分一しょ死なせる残刻だと十分感じていたしかし彼ら一人一人に「許すという一言を、割くように思いながら与えたは、勢いやむことを得なかっのである
森鷗外阿部一族」1913)
森鷗外阿部一族」1913)
同じ虞初新誌今一つ岡田好きな文章あるそれ小青伝であったその書いてある新しい形容すれば天使待たせて置いて徐かに脂粉凝すとでも云うような美しさ性命しているあのどんなに岡田同情動かしたであろうと云うもの岡田ためには美しい愛すべきであってどんな境遇にも安んじてその美しさ愛らしさ護持していなくてはならぬように感ぜられたそれには平生香奩体読んだり、sentimental(サンチマンタル、fatalistique(ファタリスチック所謂才人文章読んだりして知らず識らずその影響受けていた為めあるだろう
森鷗外」1913)
夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。私はあからさまに妻《さい》にそう言いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうとからかいました。
私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものとみえます。妻の冗談を聞いてはじめてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えもむろん冗談に過ぎなかったのですが、私はその時なんだか古い不要な言葉に新しい意義を盛りえたような心持ちがしたのです。
それから約一か月ほどたちました。御
大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、あいずの号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。あとで考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死殉死だと言いました。
私は新聞で
乃木大将の死ぬ前に書き残していったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪《と》られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえてきた年月《としつき》を勘定してみました。西南戦争は明治10年ですから、明治45年までには35年の距離があります。乃木さんはこの35年のあいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人にとって、生きていた35年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
それから2、3日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよくわからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかにのみ込めないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時勢推移から来る人間の相違だからしかたがありません。あるいは個人のもって生まれた性格の相違といったほうが確かかもしれません。
夏目漱石こゝろ」1914)