という(と言う)
12/02/2012 07:26
1.
この山はヴィトシャといいます。Тази планина се нарича/ се казва Витоша.
2-1.
2-1-1.
…と呼ぶ、…と呼ばれる、...と呼ばれている、…という名の、という意を表す。наречен/ наричащ се; казващ се; чието име е; не име...
日本という国страната, наречена/ наричаща се Япония 夏目漱石という人човек на име Сосеки Нацуме のっぽさんというニックネームпрякор Ноппо 大国主命《おおくにぬしのみこと》という神божество, наречено Окуниниши-но-микото
2-1-2.
[数量を表す語に付いて][след числителни имена]
…に達する、…にも及ぶ、などの意を表す。достигащ до...;
1万メートルという高度височина, достигаща 10 000 метра 何万人という死傷者брой на загинали, достигащ десетки хиляди души 何千という粒子
2-1-3.
「と」の受ける事柄を取り立てて強調する意を表す。подсилва/ набляга върху елемента, към който е долепено "と"
いざという時спешен/ критичен момент, случай 君というかけがえのない友人незаменимият приятел в твое лице え?あの人が犯人だったの?人というものはわからないものだなあ。А? Той ли е бил извършителят? Това, хората - никога не можеш да знаеш какви са наистина/ Никога не можеш да знаеш какъв наистина е един човек. (?)
2-2.
2-2-1.
[事物を表す同じ語を前後に置いて]
それに属するものはすべて、というような意を表す。поставя се между повторена два пъти една и съща дума и показва, че изказването засяга всички неща, които принадлежат към това, което тя назовава
店という店はすべて閉まっているвсичко, което може да се нарече магазин, е затворено; магазините до един са затворени そこでは、人という人はみんな裸足で生活しているтам всички хора ходят боси; там всичко живо ходи босо
2-2-2.
[時を表す同じ語を前後に置いて]
それを強調する意を表す。поставя се между повторена два пъти една и съща дума, назоваваща дадено време/ времева категория и се използва за подсилване/ специално наблягане върху нея
今日という今日は逃さないぞ。Днешният ден/ днешната възможност няма да изпусна! 今度という今度は許さない。Този път (наистина/вече) няма да ти простя.用例
1.
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
(西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」1939、冒頭)
2-1-1.
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資《と》り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役《りきえき》はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
(福沢諭吉「学問のすゝめ」1872-76、冒頭)
昨宵《ゆうべ》は夜中《よじゅう》枕の上で、ばちばち云う響を聞いた。これは近所にクラパム・ジャンクションと云う大停車場《おおステーション》のある御蔭である。このジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細かに割りつけて見ると、一分に一《ひ》と列車ぐらいずつ出入《でいり》をする訳になる。その各列車が霧の深い時には、何かの仕掛で、停車場間際へ来ると、爆竹のような音を立てて相図をする。信号の灯光は青でも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。Цяла нощ вчера, докато лежах в леглото, в ушите ми отекваше пукот. Това е благодарение на намиращата се наблизо възлова ж.п. гара Калпхам Джанкшън. На този ж.п. възел на ден се събират по 1000 и повече влака. Което, ако се раздели с точност, излиза, че на всяка минута влиза или излиза по един влак. Когато мъглата е гъста, всеки един от тях, посредством някакъв механизъм, щом наближи гарата сигнализира, издавайки звук, подобен на последователно избухващи бомбички. Причината е, че става толкова тъмно, че светлината на семафора – дали зелена или червена – става напълно безполезна.
(夏目漱石「霧」『永日小品』1909、冒頭)
寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋《おたまや》のそばにはまだ妙解寺《みょうげじ》は出来ていぬが、向陽院という堂宇が立って、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
(森鷗外「阿部一族」1913)
2-1-3.
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
(西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」1939、冒頭)
2-1-1.
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資《と》り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役《りきえき》はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
(福沢諭吉「学問のすゝめ」1872-76、冒頭)
このあいびきは先年仏蘭西《フランス》で死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフという人の端物《はもの》の作です。今度徳富先生の御依頼で訳してみました。私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです。
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖《あたた》かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《さか》し気《げ》に見える人の眼のごとくに朗《ほがら》かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽《かす》かに戦《そよ》いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌《しゃべ》りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢《つや》を帯び、地上に散り布《し》いた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色《こんじき》を放ち、頭《かしら》をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟《つ》えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
(ツルゲーネフ作・二葉亭四迷訳「あひびき」1888)昨宵《ゆうべ》は夜中《よじゅう》枕の上で、ばちばち云う響を聞いた。これは近所にクラパム・ジャンクションと云う大停車場《おおステーション》のある御蔭である。このジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細かに割りつけて見ると、一分に一《ひ》と列車ぐらいずつ出入《でいり》をする訳になる。その各列車が霧の深い時には、何かの仕掛で、停車場間際へ来ると、爆竹のような音を立てて相図をする。信号の灯光は青でも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。Цяла нощ вчера, докато лежах в леглото, в ушите ми отекваше пукот. Това е благодарение на намиращата се наблизо възлова ж.п. гара Калпхам Джанкшън. На този ж.п. възел на ден се събират по 1000 и повече влака. Което, ако се раздели с точност, излиза, че на всяка минута влиза или излиза по един влак. Когато мъглата е гъста, всеки един от тях, посредством някакъв механизъм, щом наближи гарата сигнализира, издавайки звук, подобен на последователно избухващи бомбички. Причината е, че става толкова тъмно, че светлината на семафора – дали зелена или червена – става напълно безполезна.
(夏目漱石「霧」『永日小品』1909、冒頭)
政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦常に変った処置があると、誰の捌きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋《おたまや》のそばにはまだ妙解寺《みょうげじ》は出来ていぬが、向陽院という堂宇が立って、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
(森鷗外「阿部一族」1913)
2-1-3.
風が高い建物に当って、思うごとく真直《まっすぐ》に抜けられないので、急に稲妻に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被っていた山高帽を右の手で抑えた。前に客待の御者が一人いる。御者台から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪に立てた。乗らないかと云う符徴である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨を固めて、烈しく胸の辺《あたり》を打ち出した。二三間離れて聞いていても、とんとん音がする。倫敦《ロンドン》の御者はこうして、己れとわが手を暖めるのである。自分はふり返ってちょっとこの御者を見た。剥げ懸った堅い帽子の下から、霜に侵された厚い髪の毛が食《は》み出している。毛布《ケット》を継ぎ合せたような粗い茶の外套の背中の右にその肱を張って、肩と平行になるまで怒らしつつ、とんとん胸を敲いている。まるで一種の器械の活動するようである。自分は再び歩き出した。Вятърът се блъска във високите сгради и понеже не може да продължи направо, както му се иска, пречупва се внезапно, подобно на светкавица и се спуска диагонално над главата ми чак до каменната настилка на пътя. Докато вървях, с дясната си ръка притиснах бомбето, което бях нахлупил. Напред има файтонджия, който чака клиенти. Изгледжа ме бе наблюдавал в това ми състояние от мястото си отпред на файтона, защото едва отделих ръка от шапката си и се изправих и веднага повдигна показалец. Няма ли да се качите – казва жестът му. Аз не се качих. Тогава файтонджията стисна дясната си ръка здраво в юмрук и започна ожесточено да се удря в гърдите. Дори и отдалечил се вече на 4-5 метра, все още се чува потупване. По този начин файтонджиите в Лондон затоплят тялото и ръцете си. Извърнах глава назад и погледнах въпросния файтонджия. Под поизтрилата се твърда шапка се подава гъста прошарена коса. Издърпва лакът назад в дясно от гърба на съшитото си сякаш от одеала грубо кафяво палто и повдигайки го докато застане на една линия с рамото, пак и пак потупва гърдите си. Досущ като някаква машина. Закрачих отново.
(夏目漱石「暖かい夢」『永日小品』1909、冒頭)泰平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天の山《しでのやま》三途の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。
(森鷗外「阿部一族」1913)
政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦常に変った処置があると、誰の捌きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
(西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」1939、冒頭)
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