さむらい(侍・士)
05/03/2012 13:21
2.
3.
並みの人ではちょっとできないようなことをやってのける人。相当な人物。気骨のある人物。
社長に食って掛かるとは彼女もなかなかのさむらいだね
4.
「侍所《さむらいどころ》」の略。
用例
1.
元慶の末か、仁和の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
(芥川龍之介「芋粥」1916、冒頭)
2.
続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門《そがまたざえもん》という侍を上使につかわす。В последствие, на 22-и, накара същите трима членове на правителството да подпишат официално писмо и изпрати с официална заръка самурай на име Сога Матадзаемон.
(森鷗外「阿部一族」1913)(МОРИ ОГАЙ “КЛАНЪТ АБЕ” в превод на Нино Калоянов)
長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息光尚《みつひさ》の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)
殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情世故《せいこ》にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生《しょう》あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子光尚の周囲にいる少壮者《わかもの》どもから見れば、自分の任用している老成人《としより》らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨みをも買っていよう。少くも娼嫉《そねみ》の的になっているには違いない。そうしてみれば、強いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉を得たような心持ちになった。
(森鷗外「阿部一族」1913)
人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない」と言って我を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
(森鷗外「阿部一族」1913)
元慶の末か、仁和の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
(芥川龍之介「芋粥」1916、冒頭)
2.
続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門《そがまたざえもん》という侍を上使につかわす。В последствие, на 22-и, накара същите трима членове на правителството да подпишат официално писмо и изпрати с официална заръка самурай на име Сога Матадзаемон.
(森鷗外「阿部一族」1913)(МОРИ ОГАЙ “КЛАНЪТ АБЕ” в превод на Нино Калоянов)
長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息光尚《みつひさ》の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)
殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情世故《せいこ》にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生《しょう》あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子光尚の周囲にいる少壮者《わかもの》どもから見れば、自分の任用している老成人《としより》らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨みをも買っていよう。少くも娼嫉《そねみ》の的になっているには違いない。そうしてみれば、強いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉を得たような心持ちになった。
(森鷗外「阿部一族」1913)
人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない」と言って我を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
(森鷗外「阿部一族」1913)
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒めるものがない。上では弥一右衛門の遺骸を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々として日を送った。
(森鷗外「阿部一族」1913)儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退きしな《のきしな》に、脇差の小柄を抜き取って髻を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
(森鷗外「阿部一族」1913)
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