いえ(家) 名詞・作品名

15/01/2012 04:27

いへ」]
アクセント:いデ]
1.
人の住むための建物。住居。すまい。家屋。
къща
大きな/小さな家голяма/ малка къща 家を建てるстроя/построявам къща
2.
自分の住んでいる建物。うち。自分のうち。我が家。自宅。къщата/ сградата, където живея; дом
家に帰るприбирам се вкъщи 家にいるвкъщи съм あすは家にいますутре съм си вкъщи 友人を家に招くканя приятел у дома 家の者が待っているвкъщи ме чакат
3.
夫婦・親子・兄弟など血縁の近いものが生活を共にする小集団。生活共同体。社会を構成する最小単位。家族。また、生活の中心となる場所。家庭。所帯。дом; семейство
結婚して家を持つ/構えるомъжвам/ оженвам се и създавам дом/ семейство 家を切り盛りする 貧しい家に生まれた。Родих се в беден дом/ семейство.
4.
祖先から代々続いてきた、血縁によってつながる家筋・家系。また、それによって守り伝えられてきた伝統・技芸・名誉・財産など。家名。家督。род; потекло; произход; също, наследство от предците
家を継ぐ 家の名誉を汚すомърсявам името на рода
5.
5-1.
家族集団の置かれている社会的地位。家柄。общественият статус на семейството; дом
学者/音楽科の家に生まれるраждам се в дом/ семейство на учени/ музиканти
5-2.
特に、よい家柄。立派な血統。名門。добро потекло/ семейство
6.
民法旧規定において、一家として戸籍に登録された親族の団体。戸主とその統率を受ける家族から構成され、戸主は戸主権に基づいて家族の居所指定や身分行為の許諾などを行なった。現行民法の実施により廃止されたが、戸籍制度や社会慣習に現在もその影響が残る。家制度。
7.

「妻」の婉曲な表現。
8.

出家に対して]
在家。在俗。俗世間。(като дума, противопоставена на "出家" (напускане дома и приемане на монашество))обикновен човек, който не е постъпил в манастир, не се е отдал на религията и пр.
9.
鏡・茶器などの器物を入れる容器。
10.

「家地《いえじ》」に同じ。
11.

長編小説。
島崎藤村作。1911年(明治44)刊。由緒ある二つの旧家の没落する過程をたどり、家族制度の因習や宿命的な血の問題を描く。заглавие на роман от Тосон Шимадзаки, издаден през 1911г.

家給《きゅう》し人足る・家高し・家に杖つく・家貧しくして孝子《こうし》顕《あら》わる・家をあける・家を出《い》ず・家を外にする・
家《うち》

用例

単に家屋をさす場合のほか、中国の家(チャ)(父系拡大家族)とは異なる特徴をもつ日本のイエ制度に基づく家族集団をさすことが普通である。また明治以来の民法における家制度(民法上の家族制度)とも区別され、日本の社会で古代より近代に及ぶ社会構造とその変動のなかに示された特徴的な生活共同の単位がイエとして把握される。古代日本の郷戸(ごうこ)の法的制度のもとでも生活共同の単位としてイエが存在し、氏(うじ)は氏の上(うじのかみ)の同族を頂点とする同族連合であったとみられ、中世の同党にも同様に同族連合の構造が指摘される。
1. 家長と家産継承
家(イエ)の制度が十分具体的に検討できる近世、近代に示した姿は次のようである。家は家長夫婦を中心としてその親族関係者の一部、ときには住込み奉公人(同居する非親族の従属者)をもその成員とし、日常起居をともにする人々の生活共同体であった。家は家長夫婦1世代限りのものではなく、代々の家長により継承され、成員個々人の新陳代謝にかかわらず存続する集団であり制度体であった。同じ家 が何代にもわたって存続することは事実上たやすいことではなかったが、家長夫婦を中心に家の成員すべてが家業に団結協力して家の永続と繁栄を図るために献身的に働くことが理想とされ、家長夫婦の1世代を過ぎても、その役割を継承するはずの跡取りがあらかじめ決められ、跡取り息子には嫁をとり、普通は2世代、まれには3世代にもわたる夫婦が同居して、家の連続性を示すのをめでたいこととして貴んだ。代々の家長の生涯を超えて数代またはそれ以上にわたって同じ家の家系が絶えないことは、その家の社会的基礎の強固さを示し、高い家格をもつとみなされ、また、そのような家から分家することにより創立された新しい 家も、そうした本家につながるものとして評価された。
中国の家が多子相続制であったのに対して、日本の家(直系家族stem family)は一子相続制であり、跡取りとされたただ1人の子とその配偶者だけが両親の家にとどまり、次代家長夫婦という地位役割を継承するとともに家産を集中的に相続した。跡取りは普通は息子、長男だけとは限らず、家業継承との関連上、適任者が選ばれ、かならずしもつねに息子に譲るとも限らないのが庶民の家であり、跡取り娘に有能な婿をとり次代家長夫婦とすることも、ことに実力を重んずる町家ではまれではなかっ た。父系による家系相続や長男相続を重視する儒教や武家の規範からみれば反則とされた庶民の家の、このような柔軟性に富む方法を、武家や儒教の家系継承の観念からみて、尊重するに足りない劣った慣習だとみなした明治政府は、父系長男相続を民法に定め、以後国民全体の守るべき「家=家族制度」とした。ただ、息子のいない場合、娘に婿養子をとり次代家長とすることは認められた。しかし、このような明治の民法以前には、前記のような跡取り設定における柔軟性が、しばしば庶民の家の永続繁栄に効果を示した。
家が父系の血筋により継承されることは庶民の場合も望ましいこととされなかったわけではないにしても、家そのものの永続繁栄を求めることこそ至上目的とされたから、息子のいない場合に養子を入れるにしても、父系親族であるかないかにあまりこだわらず、姻族や住込み奉公人を跡取り養子として養取することさえみられた。跡取り娘に婿をとり次代家長とする場合も同様で、その次の跡取りを定めるときも父系親族による継承には、さほどこだわらなかった。日本の家における家長夫婦の地位役割の継承に際して、長男とか父系とかに継承者を限ることをしなかった点で、日本の家を父系家族と規定する通説はかならずしも肯定されず、むしろ非単系non unilinealとみるべきだとされるのはこのためである。ことに跡取り娘への婿取りや、そうした結婚をさえ伴わない跡取り養子の養取が、単に少数の例外とはいえない頻度でみいだされることを軽視すべきではない。
2. 本家・分家・別家
明治の民法による影響が強まり、他方では家産に基づく家業経営(農工商の自営など)のもつ比重が弱まる(近代的雇用によって生計をたてる世帯が増加する)のと相まって、家のあり方は変化してきた。分家・別家(べっけ)についても同様であった。
近世から近代初期までは一般的であった家生活においては、庶民の家で家長の指揮下にあって家業経営内で働く住込みの奉公人は、同居している家長夫婦の親族関係者の場合に準じて同様にその家の成員とみなされてきた。親族・非親族による区別はあったにせよ、彼らはともに家の成員として、一方で非後嗣(こうし) (跡取りでない)親族員である者が配偶者を得て分家初代夫婦となり、その家から分かれた新しい家を創設してもらうのと同様に、他方では非親族の子飼い住込み奉公人が、主家であるその家から別家(奉公人分家)を創設してもらってその新しい家の初代家長となることもみられた。親族分家も奉公人分家もともに、その本家家産の一部をわずかなりとも分与され、新しく立てられた家(新家(しんや)=分家初代)の生活を始めうるようにしてやれなければ、本家は彼らのために分家を創設してやったとはいえなかった。分家の生計は本家に依存し庇護(ひご)を受けることによって成り立ち、本家はそうした親族分家や奉公人分家をもつことにより有力さを増した。このような本家・分家の家連合を社会学では同族団(略称同族)とよんでいる。
本家の家業経営は大きく、分家・別家の家業は、本家家業経営内へ通勤することによるか、もしくは本家の家業経営に従属しつつ各自の家業を自営するかした。前者の場合はもちろんであるが、後者の場合でも分家・別家の経営は広義での本家経営の内に置かれた下級経営(副次的経営単位)としての意味をもつものであった。家産に基づき家の(加えて分家・別家の)成員の労働を組織して家業が経営される場合、家における家事家政の運営と家業経営とは不可分に家産の運営のうえに成立していた。そして家計と家業上の経理とが分かちがたく結び付いていた。
家はまた、その家の先祖祀(まつ)りを家事家政の宗教的側面として重視し、家業の永続繁栄は先祖により守護されるものと考えられた。各家が初代家長以来の死者を祀るとともに、分家初代であった先祖よりさらにさかのぼる本家の先祖を祀るため本家の主催する法要にも参加した。
明治の民法における法律上の家制度では、家制度体(集団)自体の財産だった家産(家を代表して家長が管理した)が、戸主(家長)個人の私有として扱われるようになったことのほか、戸主と親族関係を有しない住込み奉公人などは法律上では家の成員と認めず、したがって奉公人分家(別家)を法律上「分家」とは認めない結果となり、親族分家だけが「分家」として認められることになった。しかし、当初は奉公人を分家させようとするために、養子として親族に加えたうえで法制上の分家制度に一致させようとする例さえ現れた。もともと弱小な生家が自力で子供を分家させるよりも、有力な他家へ子供のうちから住込み奉公させ、将来は主家から奉公人分家を創設してもらうことで、その子の創設すべき家の社会的地位を高めようと願ったのである。
生みの親にかわって親方となった家長は、このように子飼い住込み奉公人を養取し、実子に準ずる家成員とみたから、跡取りでない実子の場合と同様に、その家から分家させたり、婿や嫁に出したりしてくれることが期待され、実際にその役割を果たしたのである。
俸給による雇用が一般化すると、このような住込み奉公を前提とする奉公人分家の制度は衰え、第二次世界大戦下の人手不足により消滅した。それまでは民法の規定とは別な慣習上の家成員として住込み奉公人があり、彼らによる奉公人分家も存在したのである。
(中野卓「家《いえ》」『日本大百科全書』1984-1994
1.

間數玄關まで入れて手狹なれども吹とほし風入りよく廣々として植込木立茂ければ住居うつてつけ見えて場處小石川植物園ちかく物靜なれば少し不便にしてにはなき貸家ありけりはりしより大凡《おほよそ》ごしにも成けれどいまだに住人《すみて》さだまらでなきいと空しくなびく淋しかりき何處までも奇麗にて見こみ好ければうちには二人三人拜見とて來るもの無きにはあらねど敷金家賃三十限り取たてにて五十といふ夫れ下町相場とて折かへして來る無かりきさるほどに此ほど朝まだき四十近かるべき年輩《としごろ》紡績浴衣《ゆかた》少しさめたる着て至極そゝくさと落つき無き差配もと來たりて見たしといふ案内して其處此處戸棚など見せてあるく其等こと片耳にも入れで四邊《あたり》靜にさわやかなる喜び今日より直にお借り申まする敷金唯今置いて參りまして引越し夕暮いかにも急速で御座ります直樣掃除かゝりたう御座りますとて何の子細なく約束とゝのひぬ職業問へばいゑ別段これといふ御座りませぬとて至極曖昧答へなり人數聞かれて何だか四五御座ります七八にも成ります始終《とほし》ごたごたして御座りませぬといふ妙な思ひし掃除すみて日暮れがた引移り來たりし相乘りかけ姿つゝみて開きたる眞直に入りて玄關おろしければには見えじ思ひしげなれど乘り居たる三十利きし女中一人十八には未だ思はるゝやう病美人にも手足にも血の氣といふもの少しもなく透きとほるやうに蒼白きいたましく見えて折から世話やき來て居たりし差配此人《これ》先刻《さき》そそくさ受とられぬ思ひぬ
樋口一葉「うつせみ」1895、冒頭)
自分この下宿出る週間ほどに、蘇格蘭《スコットランド》から帰って来たその自分主婦によって紹介された二人日本人倫敦山の手の、とある小さな偶然落ち合ってしかもまだ名乗り換した事がないので身分も、素性も、経歴分らない外国婦人藉りてどうか何分頭を下げたのは、考える今もって気がするそのこの令嬢黒い着ていた骨張って脱けたような出してさんこれさん云ったが、全く云い切らない先にまた一本相手寄せてさんこれさんと、公平双方等分引き合せた
夏目漱石「過去の匂い」『永日小品』1909、冒頭)
出ると、広い通り真直《まっすぐ》貫いている試みにその中央立って見廻して見たら入《い》ることごとくで、またことごとく同じであった向う区別つきかねるくらい似寄った構造なので自分出て来たのははたしてどのであるか、二三行過ぎて後戻りすると、もう分らない不思議であるИзлязох навън – широка улица минава пред къщата, проточвайки се съвсем права открай докрай. Просто като опит застанах в средата й и се огледах наоколо – всички къщи, които попадаха в погледа ми, до една бяха четириетажни и всички до една – в един и същ цвят. И съседните, и отсрещните толкова си приличат по структура, че направо е невъзможно човек да ги различи и поради това като измина три-четири метра и се върна обратно, вече нямам представа коя изобщо е къщата, от която току-що съм излязал. Странен град.
夏目漱石「印象」『永日小品』1909、冒頭)
俳諧師松風蘿月《しょうふうあんらげつ》は今戸常磐津師匠しているをば今年盂蘭盆にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしているしかし日盛り暑さにはさすがに家《うち》出かねて夕方なるのを待つ夕方なる竹垣朝顔からんだ勝手口行水つかった後《のち》そのまま真裸体《まっぱだか》晩酌傾けやっとの事離れると、黄昏焚く蚊遣《かやり》と共にいつかなり盆栽並べた往来には簾越し下駄職人鼻唄話声にぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐに今戸行くつもり格子戸出るのであるがその辺涼台《すずみだい》から声をかけられるがまま腰を下すと、一杯機嫌話好に、毎晩きまって埒もなく話し込んでしまうのであった
永井荷風すみだ川」1909、冒頭)
ナカタさんはそもそも、たちとのコミュニケーションに完璧さを期待しているわけではなかった。なにしろ人間のあいだの会話なのだから、そんなに簡単に意思がすんなり通じあうものではない。だいいちナカタさん自身の会話能力にだって――相手が人間であるにせよであるにせよ――いささかの問題はある。先週のオオツカさんとは苦労なくすらすらとをすることができたけれど、それはむしろ例外的なケースであって、概して言えばちょっとした簡単なメッセージのやりとりにも手間のかかることが多かった。ひどいときには、の強い日に運河の両岸に立って声を掛けあっているみたいな様相を呈することもあった。今回がまさにそれだった。
の種類で分けると、どうしてかはわからないのだが、とくに茶色の縞猫とは会話の波長があわないことが多かった。黒猫とはだいたいにおいてうまくいった。シャム猫といちばんうまくができるのだが、残念ながら町を歩いていて野良のシャム猫巡り合う機会はそれほど多くない。シャム猫たちはだいたいの中で大事に飼われている。そして野良猫にはどういうわけか茶色の縞猫が多いのだ。Наката изобщо не смяташе, че ще може лесно да се обясни с котките. Не е шега работа котките и хората да намерят общ език. А трябваше да се вземе предвид и още нещо:самият Наката имаше проблеми при говорене- не само с котките, но и с хората. Разговорът му с Оцука миналата седмица бе протекъл гладко, но той бе по-скоро изключение. В повечето случаи дори обменянето на елементарни фрази изискваше огромно усилие. Сякаш във ветровит ден двама души, застанали един срещу друг на бреговете на широка река, се опитват да си предадат нещо с викове. И с този котарак се получаваше същото.
Той не знаеше защо, но с котките с кафеникави ивици бе най-трудно да си на една и съща вълна. С черните, общо взето, всичко вървеше добре. Общуването със сиамките бе най-лесно, но за съжаление по улиците не се срещаха често изгубени сиамки. Сиамките обикновено ги държаха затворени вкъщи и добре се грижиха за тях. А кой знае защо, сред бродещите котки тези на кафеникави ивици бяха най-много.

(村上春樹「海辺のカフカ」2002 Харуки Мураками “Кафка на плажа” 2002, превод от англ. Людмил Люцканов)

2.

みんなかへる
はあるゆふべのゆきき
種田山頭火(1882-1940))
3.

例年
葺く端午菖蒲摘まず、ましてや初幟をするのあるも、その生まれこと忘れようにして、静まり返っている。
森鷗外阿部一族」1913)
4.

この
人々にはそれぞれ菩提所葬られのもあるが、また高麗門山中にある霊屋《おたまや》そば葬られのもある
森鷗外阿部一族」1913)
津崎のでは往生院を菩提所していたが、往生院は上《かみ》由緒あるいうのではばかって、高琳寺を死所《しにどころ》ときめたのである
森鷗外阿部一族」1913)
しかし、その家系には、複雑暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態演じなかった。津軽地方最も上品の一つに数えられていたようである。この家系で、人からうしろ指を差されるような愚行演じたのは私ひとりであった。
太宰治(1909-1948)「苦悩の年鑑」)
5-2.

愚かにつたなき人も
に生れ時にあへば高き位に登り
吉田兼好徒然草」14世紀前半
7.

左大臣の
、昔よりよろしからず心聞(こ)ゆる人なり
(「
宇津保物語平安中期
8.

にあり、人に交はるとも後世を願はんに難かるべきかは
吉田兼好徒然草」14世紀前半