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世紀(せいき)

29/12/2015 10:51

→「せいき(世紀)

用例

また前年坪内博士、『早稲田文学にて公表せられし幸若舞曲それから浄瑠璃名高き百合若ギリシャユリッセス基づくという考説など素人日本固有美譚思い込んだるものにも実は舶来焼直しなきあらざる証する余りあり
南方熊楠西暦世紀支那載せたるシンダレラ物語」1911)

  ヴィヤグラ、インド語バグ、インドタミル語ピリ、ジャワマチャム、マレーリマウ、アラブニムル、英語タイガー、その他欧州諸国大抵これ似おりいずれもギリシアラテンチグリス基づくそのチグリスなるペルシア語チグリ(より出で駛く走る飛ぶ比べたるに因るならんというわが国でも古来実際見ずに千里走る信じ戯曲清正捷疾《すばやさ》賞して千里一跳虎之助など洒落て居るプリニ博物志に拠れば生きたローマ人初めて見たのはアウグスッスだったそれより欧州人実物見る極めてだったから捕うるため跳る疾さペルシア飛ぶ比べた聞き違えてプリニ二十五こんな《こと》述べて居る曰くヒルカニアインドあり疾く走る驚くべし多く産むそのことごとく取り去られた最も疾く走る例えば猟夫《ひま》乗じその子供取りて替えて極力馳せ去るもとより一向世話焼かず帰って覚る直ちに《におい》嗅いで尋ねごとく走り追うその近くなる猟夫虎の子一つ落すこれ銜えて奔り帰りそのをきてまた猟夫追うまた一つ落す拾い伴い帰りてまた拾い奔るかかる猟師余すところ子供全うして乗る立ちて望み見ていたずらに惆恨しかれども十七世紀には欧人東洋航して親《まのあた》り活きた自然生活まま観察した多くなりほど長途疾く走るものでない解ったので英国サー・トマス・ブラウン俗説弁惑《プセウドドキシヤ・エピデミカ》』プリニ破り居る李時珍いうその象《かたど》る唐音フウ、フウ吼えるそのそのまましたというんだこれしかるべき凡てどこでもオノマトープとて動物そのとしたすこぶる多い往年学芸志林浜田健次郎わが国詳しく述べられた異名多くある以後しばしば大虫呼んだ見える大きな動物すなわち大親分尊称したらしいスウェーデン牧牛女《うしかいめ》黙者《だんまり》、灰色《はいいろあし》、金歯《きんば》など呼び老爺《おやじ》、大父《おおちち》、十二《にんりき》、金脚《きんあし》など名づけ決してその本名呼ばずまた同国小農輩キリスト昇天日第二言わずいずれもその避けんため(ロイド『瑞典小農生活《ピザント・ライフ・イン・スエデン》』)。カナリース本名言わずベンガルでは必ず叔父ははかたおじ唱う(リウィス『錫蘭セイロン俗伝』)。わが邦にも諸職各々忌詞《いみことば》あって、『北越雪譜杣人《そまびと》猟師から女根まで決して本名称《とな》えぬ挙げ熊野でも巫輩《みこども》山の神また御客様など言い山中天狗天狗呼ばず高様《たかさま》と言ったまた支那李耳《りじ》称う郭璞《かくはく》食う値《あ》えばすなわち止《や》む故に李耳呼ぶその触るればなり〉、応劭《おうしょう》南郡化けた李耳名づくと言った李時珍これとし李耳狸児《りじ》訛《なま》ったので今も支那呼んで為すと言った日本専らたぬき訓《よ》ます支那ではたぬきほか学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル野猫をも呼ぶしたがって野狸別《わか》たんとて家狸異名因って想うに仏経罵って小蛇子と言うごとく狸児蔑して児猫といった意味だろうこれ似て日本擬《なぞら》えた『世事百談』とは大小剛柔遥かに殊《こと》なるといえどもその形状類する絶えて能く似たりされば我邦古《いにし》え手飼の虎いえる古今六帖浅茅生《あさぢふ》の小野篠原いかなれば手飼の虎伏所《ふしどころ》なる」、また源氏物語女三宮見えたり唐土《もろこし》小説山猫という事、『西遊記十三虎穴陥って金星解《とりのぞ》くいえる「〈伯欽道《い》う是個《こ》の山猫来れり云々見る一隻班爛虎〉」あり云々」、これ伯欽恃《たの》んで山猫蔑語したのだ
南方熊楠関する史話伝説民俗」『十二支』1914-23、冒頭
「世紀(せいき)」用例(1950年代)
  世紀以来仏教入ってきますところがはじめから大乗仏教非常に高度なもの入ってくる唯識などという仏教なかでも最高に論理的でむずかしいものなどただちに入ってくるそれやがて空海などによって土着的なものつなげられる最近研究では空海入唐私度僧山林修行僧として山野うろうろしていたらしく土着的なもの深く根ざした信仰形態かかわりもっていたのではないかいわれていますこのあたりから徐々に土着自然性にじみ出てきて鎌倉期親鸞まで下る自然法爾というような生地丸出しようなところにまでくる
  もう一つ儒教です儒教ちょうど徳川幕府発足した一六〇〇ごろから仏教とって代わる支配的な知的形態としての地位確立しはじめるのですがこれ仏教唯識法相宗中観三論宗ようなややこしいものいきなり受け入れたようにはじめから朱子学という非常に高度な論理形態忠実に受け入れているそれ伊藤仁斎において徹底的な朱子学批判通してかなりシンプルになりある意味仁斎学風継承した荻生徂徠古文辞学なるその徂徠古文辞学方法影響もと本居宣長国学説いたころにはもう自然帰っているわけです同じころ安藤昌益自然帰れという思想生まれるそこへ収束してゆくのです高度なもの入っても鎌倉時代江戸時代という江上先生いわれる内面化段階日本人落着きいいところ収斂してきてそこで一種独創めいたものできる
(上山春平(石田英一郎・上山春平・江上波夫・増田義郎「座談会日本人好奇心エネルギー源泉」『日本文化構造』1972)
「世紀(せいき)」用例(1980年代)