ていた(て居た)
13/02/2012 11:58
[歴「てゐた」]
[連語]
接続助詞「て」+補助動詞「いる(居る)」の連用形「い(居)」+助動詞「た」。
用例
このあいびきは先年仏蘭西《フランス》で死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフという人の端物《はもの》の作です。今度徳富先生の御依頼で訳してみました。私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです。
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖《あたた》かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《さか》し気《げ》に見える人の眼のごとくに朗《ほがら》かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽《かす》かに戦《そよ》いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌《しゃべ》りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢《つや》を帯び、地上に散り布《し》いた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色《こんじき》を放ち、頭《かしら》をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟《つ》えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
(ツルゲーネフ作・二葉亭四迷訳「あひびき」1888)
風が高い建物に当って、思うごとく真直《まっすぐ》に抜けられないので、急に稲妻に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被っていた山高帽を右の手で抑えた。前に客待の御者が一人いる。御者台から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪に立てた。乗らないかと云う符徴である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨を固めて、烈しく胸の辺《あたり》を打ち出した。二三間離れて聞いていても、とんとん音がする。倫敦《ロンドン》の御者はこうして、己れとわが手を暖めるのである。自分はふり返ってちょっとこの御者を見た。剥げ懸った堅い帽子の下から、霜に侵された厚い髪の毛が食《は》み出している。毛布《ケット》を継ぎ合せたような粗い茶の外套の背中の右にその肱を張って、肩と平行になるまで怒らしつつ、とんとん胸を敲いている。まるで一種の器械の活動するようである。自分は再び歩き出した。Вятърът се блъска във високите сгради и понеже не може да продължи направо, както му се иска, пречупва се внезапно, подобно на светкавица и се спуска диагонално над главата ми чак до каменната настилка на пътя. Докато вървях, с дясната си ръка притиснах бомбето, което бях нахлупил. Напред има файтонджия, който чака клиенти. Изгледжа ме бе наблюдавал в това ми състояние от мястото си отпред на файтона, защото едва отделих ръка от шапката си и се изправих и веднага повдигна показалец. Няма ли да се качите – казва жестът му. Аз не се качих. Тогава файтонджията стисна дясната си ръка здраво в юмрук и започна ожесточено да се удря в гърдите. Дори и отдалечил се вече на 4-5 метра, все още се чува потупване. По този начин файтонджиите в Лондон затоплят тялото и ръцете си. Извърнах глава назад и погледнах въпросния файтонджия. Под поизтрилата се твърда шапка се подава гъста прошарена коса. Издърпва лакът назад в дясно от гърба на съшитото си сякаш от одеала грубо кафяво палто и повдигайки го докато застане на една линия с рамото, пак и пак потупва гърдите си. Досущ като някаква машина. Закрачих отново.
(夏目漱石「暖かい夢」『永日小品』1909、冒頭)
南向きの部屋であった。明かるい方を背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭を揃えて、塗板《ぬりばん》を眺めていると、廊下から先生が這入って来た。先生は背の低い、眼の大きい、瘠せた男で、顎から頬へ掛けて、髯が爺汚《じじむさ》く生えかかっていた。そうしてそのざらざらした顎の触《さわ》る着物の襟が薄黒く垢附《あかづ》いて見えた。この着物と、この髯の不精に延びるのと、それから、かつて小言を云った事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされていた。
(夏目漱石「紀元節」『永日小品』1909、冒頭)
豊三郎《とよさぶろう》がこの下宿へ越して来てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所《いどころ》が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸《のこぎり》の音がする。
(夏目漱石「声」『永日小品』1909、冒頭)
二階の手摺に湯上りの手拭《てぬぐい》を懸けて、日の目の多い春の町を見下すと、頭巾を被《かむ》って、白い髭を疎《まば》らに生やした下駄の歯入が垣の外を通る。古い鼓を天秤棒に括りつけて、竹のへらでかんかんと敲くのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向《すじむこう》の医者の門の傍《わき》へ来て、例の冴え損なった春の鼓をかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向《むこう》の方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一搏《ひとはばたき》に手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴の細枝に留っていたが、落ちつかぬと見えて、二三度身ぶりを易《か》える拍子に、ふと欄干に倚りかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙《けむ》るごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗な足で手摺の桟《さん》を踏まえている。
(夏目漱石「心」『永日小品』1909、冒頭)
二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日《こんにち》までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調《したしらべ》をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。その時窓の真下の家《うち》の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下《みおろ》していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。
(夏目漱石「変化」『永日小品』1909、冒頭)
しかるに一種変った跡目の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割《さ》いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖《ふ》えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
(森鷗外「阿部一族」1913)
政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦常に変った処置があると、誰の捌きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒めるものがない。上では弥一右衛門の遺骸を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々として日を送った。
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖《あたた》かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《さか》し気《げ》に見える人の眼のごとくに朗《ほがら》かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽《かす》かに戦《そよ》いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌《しゃべ》りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢《つや》を帯び、地上に散り布《し》いた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色《こんじき》を放ち、頭《かしら》をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟《つ》えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
(ツルゲーネフ作・二葉亭四迷訳「あひびき」1888)
風が高い建物に当って、思うごとく真直《まっすぐ》に抜けられないので、急に稲妻に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被っていた山高帽を右の手で抑えた。前に客待の御者が一人いる。御者台から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪に立てた。乗らないかと云う符徴である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨を固めて、烈しく胸の辺《あたり》を打ち出した。二三間離れて聞いていても、とんとん音がする。倫敦《ロンドン》の御者はこうして、己れとわが手を暖めるのである。自分はふり返ってちょっとこの御者を見た。剥げ懸った堅い帽子の下から、霜に侵された厚い髪の毛が食《は》み出している。毛布《ケット》を継ぎ合せたような粗い茶の外套の背中の右にその肱を張って、肩と平行になるまで怒らしつつ、とんとん胸を敲いている。まるで一種の器械の活動するようである。自分は再び歩き出した。Вятърът се блъска във високите сгради и понеже не може да продължи направо, както му се иска, пречупва се внезапно, подобно на светкавица и се спуска диагонално над главата ми чак до каменната настилка на пътя. Докато вървях, с дясната си ръка притиснах бомбето, което бях нахлупил. Напред има файтонджия, който чака клиенти. Изгледжа ме бе наблюдавал в това ми състояние от мястото си отпред на файтона, защото едва отделих ръка от шапката си и се изправих и веднага повдигна показалец. Няма ли да се качите – казва жестът му. Аз не се качих. Тогава файтонджията стисна дясната си ръка здраво в юмрук и започна ожесточено да се удря в гърдите. Дори и отдалечил се вече на 4-5 метра, все още се чува потупване. По този начин файтонджиите в Лондон затоплят тялото и ръцете си. Извърнах глава назад и погледнах въпросния файтонджия. Под поизтрилата се твърда шапка се подава гъста прошарена коса. Издърпва лакът назад в дясно от гърба на съшитото си сякаш от одеала грубо кафяво палто и повдигайки го докато застане на една линия с рамото, пак и пак потупва гърдите си. Досущ като някаква машина. Закрачих отново.
(夏目漱石「暖かい夢」『永日小品』1909、冒頭)
南向きの部屋であった。明かるい方を背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭を揃えて、塗板《ぬりばん》を眺めていると、廊下から先生が這入って来た。先生は背の低い、眼の大きい、瘠せた男で、顎から頬へ掛けて、髯が爺汚《じじむさ》く生えかかっていた。そうしてそのざらざらした顎の触《さわ》る着物の襟が薄黒く垢附《あかづ》いて見えた。この着物と、この髯の不精に延びるのと、それから、かつて小言を云った事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされていた。
(夏目漱石「紀元節」『永日小品』1909、冒頭)
豊三郎《とよさぶろう》がこの下宿へ越して来てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所《いどころ》が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸《のこぎり》の音がする。
(夏目漱石「声」『永日小品』1909、冒頭)
二階の手摺に湯上りの手拭《てぬぐい》を懸けて、日の目の多い春の町を見下すと、頭巾を被《かむ》って、白い髭を疎《まば》らに生やした下駄の歯入が垣の外を通る。古い鼓を天秤棒に括りつけて、竹のへらでかんかんと敲くのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向《すじむこう》の医者の門の傍《わき》へ来て、例の冴え損なった春の鼓をかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向《むこう》の方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一搏《ひとはばたき》に手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴の細枝に留っていたが、落ちつかぬと見えて、二三度身ぶりを易《か》える拍子に、ふと欄干に倚りかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙《けむ》るごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗な足で手摺の桟《さん》を踏まえている。
(夏目漱石「心」『永日小品』1909、冒頭)
二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日《こんにち》までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調《したしらべ》をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。その時窓の真下の家《うち》の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下《みおろ》していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。
(夏目漱石「変化」『永日小品』1909、冒頭)
しかるに一種変った跡目の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割《さ》いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖《ふ》えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
(森鷗外「阿部一族」1913)
政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦常に変った処置があると、誰の捌きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の俸禄分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
(森鷗外「阿部一族」1913)
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒めるものがない。上では弥一右衛門の遺骸を霊屋《おたまや》のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は面目を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公《おおやけ》に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩《ほうばい》にうとんぜられて、怏々として日を送った。
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