もりおうがい(森鷗外) 人名

10/03/2014 16:17

もりおうぐわい」]
(1862-1922)小説家・劇作家《げきさっか》・評論家・翻訳家《ほんやくか》・軍医《ぐんい》。石見国《いわみのくに》津和野《つわの》生《う》まれ。本名《ほんみょう》、林太郎《りんたろう》。別号《べつごう》、観潮楼主人《かんちょうろうしゅじん》など多数 《たすう》。森茉莉《もりまり》の父《ちち》。東大医学部卒《とうだいいがくぶそつ》。日本《にほん》の衛生学《えいせいがく》の開拓者《かいたくしゃ》。陸軍軍医《りくぐんぐんい》としてドイツに留学。軍医《ぐんい》として昇進《しょうしん》する一方《いっぽう》、「しからみ草紙 《ぞうし》」などを刊行《かんこう》して翻訳《ほんやく》・評論《ひょうろん》・創作《そうさく》・文学誌《ぶんがくし》刊行《かんこう》などの多彩《たさい》な文学活動《ぶんがくかつどう》を展開《てんかい》、また、医学面《いがくめん》でも封建性《ほうけんせい》の払拭《ふっしょく》を目指《めざ》し論戦《ろんせん》をくりひろげた。晩年《ばんねん》は歴史小説《れきししょうせつ》・史伝《しでん》に進《すす》んだ。また晩年《ばんねん》、帝室博物館長《ていしつはくぶつかんちょう》。小説舞姫」「青年」「」「 ヰタ・セクスアリス 」「 阿部一族 」「 高瀬舟 」「渋江抽斎」、翻訳《ほんやく》「於母影《おもかげ》」「即興詩人」「ファウスト」など多数《たすう》。Мори Огай (1862-1922; японски писател, поет, преводач, лекар)

用例

森鷗外用例
森鷗外氏は篁村文愛読者の一人にして
内田魯庵「緑蔭茗話」1890-91)
たとえば、1970年代に三島由紀夫自殺したことは、われわれを驚かせた。だが、彼は昭和45年に切腹したのであれば、それほど驚くべきではないだろう。おそらく三島がそのことを意識していたはずなのだ。われわれは三島の行動に2.26の叛乱の“再現”を見がちであるが、むしろ明治45年における乃木将軍の殉死想起すべきなのである。乃木将軍の自決も、そのアナクロニズムによって、当時の人々を驚かせた。天皇立憲君主国君主であるから、それに対して殉死は考えられない。乃木将軍は天皇に対して、封建的な主君に対する忠誠関係をとったのだ。明治20年以後の近代国家の体制のなかで育った、芥川龍之介志賀直哉が乃木のアナクロニズム嘲笑したのは当然である。
しかし、それは森鷗外に衝撃を与え、『興津弥五右衛門の遺書』を書かせた。それ以後、鷗外武士あるいは封建的世界の人間を描く歴史小説に移行した。ここで「封建的」というのは、直接の主人に対しては絶対的な忠誠関係をもつが、それ以上の上司に対してはもたないような関係の在り方をさす。このために、封建的な体制は、中央集権的な近代国家と違って、多元的な勢力の反乱にさらされる。鷗外が描いた『阿部一族』の人々は、主人への忠誠のゆえにに反逆することを辞さない。こうした封建的人間には、唯一の主権者に全面的に従属(subject)することによって主体(subject)となる近代国家の個人にはないような独立性がある。実際、明治40年代の「自由民権」運動を支えていたのは、そのような近代人ではない、封建的な人間の独立心であり自負心である。だが、それは西南戦争に示されるように、国家主権を否定する内乱に導かれるほかない。
(柄谷行人「終焉をめぐって」1990)
鷗外の「石見人森林太郎」として死ぬという遺書が意味するのは、彼の故郷への回帰といったノスタルジーではない。それは、彼自身が支持し且つそこで栄達した明治の近代国家体制に対する否定をはらんでいる。鷗外が惹かれたのは、封建的人間の古さではなく、大正期の近代的な「内面」にうしなわれた独立性であり多元性なのである。
(柄谷行人「終焉をめぐって」1990