なつめそうせき(夏目漱石) 人名

13/02/2017 05:36

(1867-1916)小説家・英文学者《えいぶんがくしゃ》。本名は金之助《きんのすけ》。江戸、牛込《うしごめ》生《う》まれ。東大卒《とうだいそつ》。森鷗外と並《なら》ぶ近代日本文学の巨匠《きょしょう》。英国留学後《えいこくりゅうがくご》、教職《きょうしょく》を辞《じ》して朝日新聞の専属作家《せんぞくさっか》 となり、同紙《どうし》に名作《めいさく》を次々《つぎつぎ》と発表《はっぴょう》した。自然主義に対立《たいりつ》し、心理的《しんりてき》手法《しゅほう》で近代人《きんだいじん》の孤独《こどく》やエゴイズムを追求《ついきゅう》、晩年《ばんねん》は「則天去私《そくてんきょし》」の境地《きょうち》を求《もと》めた。俳句・漢詩《かんし》・書画《しょが》をもよくした。著《ちょ》「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「それから」「行人」「」「こゝろ」「彼岸過迄」「道草」「明暗」など。Нацуме Сосеки (1867-1916; японски писател от периода Мейджи. Сред творбите му са "Кокоро"("Сърце"), "Санширо", "Мон" ("Врата") и др.)

ホトトギス3.

用例

夏目漱石散文用例
Kは禁欲的理想主義者だった。《仏教教義養われた彼は、衣食住についてとかく贅沢というのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒《セーント》だとかの伝を読んだ彼には、ややもすると精神肉体を切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば光輝が増すように感ずる場合さえあったのかもしれません》。
これだけでは、Kはたんにエクセントリック観念的な青年でしかないようにみえる。しかし、このように極端なタイプは、ある時期に固有のものだというべきである。たとえば、キリスト教に向かった北村透谷や、に向かった西田幾多郎をみればよい。彼らはそれぞれ政治的な闘いに敗れたあと、急速に整備されるブルジョア国家の体制に対して、「内面」に立てこもった。つまり、「明治維新」の可能性が閉ざされたあとで、世俗的なもの一切に対立しようとしたのだ。しかも、彼らは世俗的=自然的なものに敗れざるをえなかった。透谷は自殺し、西田幾多郎は屈辱をしのんで帝大選科に入ったのである。Kもまたそのようなタイプであったといえる。
“先生“がKを尊敬し、Kに追随した理由もそこにある。だが、同時に、及びがたいモデルに対する悪意もある。それは、「彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性のそばに彼をすわらせる方法を講じ」るという善意のなかに隠されている。それは、Kが峻拒している世俗的=自然的なものに、彼を屈服させようとする誘惑である。Kが死ぬのは、友人に裏切られたからではなく、「内面」の独立性を貫徹しえなかった無力と空虚の意識によってである。
したがって、三角関係の問題のなかに、実は「政治」の問題がひそんでいるというべきである。“先生“もKも、ともに何かを裏切ったのだ。それは、明治20年代において着々と整備されていく近代国家以前にあった多様な可能性であったといってよい。漱石自身についても同じことがいえる。
(柄谷行人「終焉について」1990)
漱石は、いわば明治10年代の残党である。『野分け』や『二百十日』では、俗世間に対して怒号する主人公が描かれている。しかし、彼らは『共産党宣言』がすでに翻訳されていた明治40年ごろの現実からみれば、古めかしい。それは漱石のなかで明治10年代からもちこされてきたものだ。漱石が「明治精神」とよぶのは、明治全体の時代精神如きものではありえない。彼はそれを唾棄していたからである。
明治20年後半から30年代にかけて成立した「近代文学」において、すでに透谷漱石にあった「内面」は希薄化され、たんなる自己意識化している。いいかえれば、「内面」の政治的起源が忘れられている(『日本近代文学起源』参照)。これが”先生”のいう「時勢推移」である。
(柄谷行人「終焉について」1990)